阿弥陀如来をどう語るか ―― 聞き手に合わせて「言葉」を選ぶということ

はじめに

「阿弥陀如来の本願を信じなさい」。浄土真宗の法話において、幾度となく語られてきた言葉です。しかし、この言葉は今を生きる若い世代の心に、どれほど届いているのでしょうか。

今回は、ある地域の浄土真宗寺院で寺務に携わる僧侶(以下、A氏)へのインタビューから、「仏教を伝える言葉」について考えます。A氏は、寺に生まれ育った自身でさえ、従来の法話の言葉に納得しきれなかった経験を率直に語ってくださいました。

教えそのものを曲げることなく、聞き手に届く言葉をいかに選ぶか。本稿では、法話に携わる住職の方々にも参考にしていただける視点を中心にご紹介します。

第1章 「本願を信じて」だけでは届かない

A氏はまず、「寺の中にだけいる人の話には説得力がない」という自身の考えを語りました。浄土真宗は本来、俗世間の中で修行をすることができない人々に向けて開かれた教えです。であるならば、その教えは世間で生きる人々の実感に届く言葉で語られなければならない、というのがA氏の問題意識です。

たとえば昔であれば、漁をして生きる人々に「命を粗末にするな」とだけ説いても通用しなかったはずです。同じように、上司から理不尽なことを言われる経験や、汗水垂らして営業をしても相手にされない経験を知らないまま、正論だけを振りかざして仏教を語っても、聞き手の心には届かない。A氏はそう考えています。

「寺に生まれた自分でさえ、話を聞いて面白くないと感じることがある」とA氏は言います。「阿弥陀如来の本願を信じて」と言われても、若い世代がそれを聞いて素直にうなずくことは、まずありません。

もちろん、教えを曲げてよいということではありません。ただ「信じなさい」と繰り返すのではなく、阿弥陀如来とはどのような存在なのか、「南無阿弥陀仏」という言葉には本来どのような意味や役割があるのか。そうした筋道を丁寧に示していく必要があるのではないか。単に「信心が大事だ」と言われるだけでは、世間の中で見向きもされないという危機感がそこにはあります。

第2章 「主体を切り替える」という言い換え

A氏自身も、長く「阿弥陀如来を信じる」ということの意味に悩んできたといいます。そのうえで現時点でたどり着いた受け止め方が、「主体の切り替え」という考え方でした。

私たちは普段、自分を主体として物事を考えています。しかし、自分を主体としたまま仏教を眺めれば、自分の価値観やこれまでの経験でしか判断することができません。その結果、「それは迷信だろう」「今は科学の時代だから」という受け止め方になってしまいます。

A氏によれば、「如来を信じる」とは、その主体を自分から別のものへと切り替えることだといいます。主体が自分である限り、自分の価値観から逃れることはできない。だからこそ「如来にお任せする」のであり、それは無我の教えや、あらゆるものとのつながりという考え方にも通じていきます。ある著名な解剖学者が「自分などというものはない」と語っていることにも触れながら、A氏は「仏教にまったく関心のない人に話すなら、まず『自分主体の立場を変えなければならない』と伝えたい」と語りました。

自分主体のままで仏教の話を聞いても、結局は自分の考えや経験をもとにしか判断できず、永遠に伝わらない。「主体を変える」という役割として阿弥陀如来を語れば、若い人たちの心にも落ちていく部分があるのではないか。専門用語を避けながらも、教えの核心から離れない。こうした言い換えの工夫は、法話に携わる方にとって一つのヒントとなるのではないでしょうか。

第3章 対機説法に学ぶ ―― 相手によって言葉は違ってよい

A氏は、自らの言い換えが教義として完全に正しいとは限らない、と慎重に前置きをしたうえで、「対機説法」という考え方を挙げました。お釈迦様が相手の機根に応じて説き方を変えたように、仏教を深く学んでいる人に向ける言葉と、まったく関心のない人にまず振り向いてもらうための言葉は、違っていてよいのではないか、という考えです。

A氏は、大乗仏教の根底にある龍樹の「空」の思想にも触れました。ある作家が、阿弥陀如来を「空」の教えを別の形で表したものと捉えていたという話を読み、自身もその方がすっと受け入れられたといいます。もちろん浄土真宗が「空」だけに焦点を当てる教えでないことは承知したうえで、こうした源流にも触れていくことが理解の助けになると考えています。

信心や極楽浄土の話は、年配の方にはある程度通じている部分もあるかもしれません。しかし若い世代には、それだけではまったく通用しない。一方で、源流にさかのぼる話をしようとすると、「そんな難しい話をしても門徒さんには分からない」と言われてしまうこともあるそうです。

A氏が目指しているのは、難しい言葉を並べることではありません。むしろその逆で、「空」「無常」「無我」といった言葉を使わずに、日常の人間関係や悩みの中に教えを落とし込むことです。たとえば、「自分の勝手でしょう」「他人は関係ない」と考えている人に対して、「関係ないということはないのだよ」と伝える。そのときに「無我」という言葉を持ち出した時点で、聞き手の心のシャッターは閉じてしまいます。言葉を使わずに、その意味を日常の中で感じてもらう。そこにこそ工夫の余地があるとA氏は語ります。

第4章 自分が納得した言葉で語る

A氏がここまで言葉にこだわる背景には、自身の経験があります。「ただ単純に『如来の本願を信じろ』と言われても、自分自身が納得できなかった」。そしてA氏は、「自分が納得していないことを、人に熱をもって伝えることは絶対にできない」と続けます。

かつてのA氏は、師匠の話をそのままなぞり、あたかも自分の言葉であるかのように語っていたといいます。本当にそう思っているかどうかも分からないまま、言わなければならないから言う。そうした語り方に対する違和感が、「主体の切り替え」という受け止め方にたどり着くまでの長い模索につながりました。

A氏は、今の年齢になったからこそ、自ら調べたり本を読んだりする中で、人生経験と重ね合わせて教えを消化できるようになってきたと振り返ります。借り物ではなく、自分の中で咀嚼された言葉であるからこそ、相手に合わせて言い換えることもできる。言葉を選ぶ自由は、教えを自分のものとして受け止めた人にこそ与えられるものなのかもしれません。

第5章 伝え方の工夫 ―― 見せ方と「残る一言」

A氏は、言葉の選び方だけでなく、「見せ方」にも工夫の余地があると考えています。多くの法話は、黒板に少し書き、プリントを配る程度で、あとは難しい話を聞いてもらうという形式にとどまっています。これに対してA氏は、スライドを映しながら話し、配布物はきちんとプリントとして手渡すなど、目で見て分かる工夫を取り入れたいと語ります。話の内容はもちろん大切ですが、見せ方によって聞き手の集中は大きく変わるからです。

さらにA氏が強調したのは、「頭に残る一言」の力です。A氏は、広告でいう「キャッチコピー」のような言葉が大切だと言います。その場では特に響かなくてもよい。しかし後になってつらいことがあったとき、「そういえば、あのときお坊さんがこんな話をしていた」と思い出してもらえれば、それは大きな意味を持ちます。

そのためには、難しい話をすることにはほとんど意味がない、とA氏は言い切ります。聞き手の年齢や関心に合わせてアプローチを変え、いつでも語れる引き出しを数多く用意しておくこと。それが、今の時代に教えを伝える者に求められている姿勢なのかもしれません。

まとめ

「阿弥陀如来の本願を信じて」という言葉は、浄土真宗の教えの核心を表すものです。しかし、その言葉がそのまま届く聞き手ばかりではありません。とりわけ仏教になじみのない若い世代に対しては、教えの意味を日常の言葉に置き換え、筋道を立てて伝える工夫が求められています。

今回ご紹介したA氏の「主体を切り替える」という言い換えや、「無我」という言葉を使わずに無我を伝えるという姿勢は、いずれも教えを曲げることなく、聞き手との距離を縮めるための試みです。

相手によって言葉を選ぶことは、教えを軽んじることではなく、むしろ教えを確かに届けるための誠実な営みだといえるでしょう。法話に携わる方々が、改めてご自身の「言葉」を見つめ直すきっかけとなれば幸いです。

今回インタビューさせていただきましたA氏のNoteはこちら;https://note.com/keishin0513

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