得度って何? ─ お坊さんになるための第一歩を知る

お坊さんへの入り口「得度」とは何か 

仏教の世界において、僧侶としての道を歩み始めるための最初の儀式が「得度(とくど)」です。得度を受けるにあたっては、事前に指定された髪型にするなど、厳格な決まりが存在します。例えば、ある宗派の得度では、事前に頭を丸めて「五分刈り(ごりん)」にしてくるようにと指示を受けます。もし指定された長さを少しでも超えていれば、もう一度出直して剃ってくるようにと命じられるほどの厳しさです。現代では頭を完全に丸めてくれる理髪店を見つけること自体が難しくなっている背景もあり、得度を行う本山の地下ホールなどに、出張で特別な理髪師が待機しており、そこで髪を剃り上げてから儀式に臨むケースも見受けられます。得度前に簡単な試験が課されることもあり、「阿弥陀経」や「正信念仏偈(しょうしんげ)」といったお経が読めるかどうかの確認や、宗祖の名前(例えば「親鸞」という漢字)を正確に書けるかどうかが問われることもあります。

宗派で異なる修行の入り口:「東」と「西」の違い 

同じ教えを共有する浄土真宗であっても、いわゆる「お東」と「お西」と呼ばれる二つの大きな宗派間で、得度やその上位資格である「教師」を取得するための修行・研修の内容は驚くほど異なります。ある「お西」の宗派の得度では、専用の別院などの施設で約10日間ほどの合宿生活が課せられます。教師資格の修練となると、その期間は約2週間にも及びます。この期間中、修行僧たちは外界から完全に隔離され、携帯電話の持ち込みも没収されるという厳格な環境下に置かれます。中には、没収されることを見越してダミーの携帯電話を預け、本物の携帯電話を隠し持つという修行僧も過去には存在したといいます。一方、「お東」の宗派の場合、得度自体は地方での2泊3日の事前研修を経て、本山に赴いて1泊2日程度で終了するなど、比較的短期間に設定されています。このように、同じ教えをルーツに持ちながらも、入門における時間的・物理的な拘束には明確な違いが存在しています。

隔離された生活と厳格な規律の実態 

長期の泊まり込みとなる「お西」の修行では、日常生活のあらゆる行動に厳格な作法が求められます。例えば、施設内の廊下を歩く際、足袋を履かずに歩いただけで指導教官から激しく怒られるなど、徹底した規律が敷かれています。また、単に教義を学ぶだけでなく、「荘厳(しょうごん)」と呼ばれる仏具の並べ方や、その正確な名称を暗記し、テストに合格しなければならないといった実践的な知識も厳しく問われます。毎日のスケジュールは、朝のお勤め(読経)の指導に始まり、午前と午後の座学、夕方の声明(しょうみょう:お経の節回し)の練習、そして夜のお勤めと、息をつく暇もありません。修行僧たちが口を揃えて「辛い」と語るのは、長時間の「正座」です。体重が重い修行僧にとっては、自らの体重が足にのしかかるため、正座の苦痛はさらに過酷なものになります。

思想と向き合う座学中心の修行 

一方、「お東」の修行(教師資格の修練など)では、作法よりも「思想」や「社会課題」に向き合う座学に極めて重きが置かれています。前期と後期の各1週間にわたり、部落差別問題などの深刻なテーマについて集中的に学ぶカリキュラムが組まれています。朝の9時から12時まで続く講義では、講師が話す内容をノートに「全文筆記」することが求められるなど、知的・精神的な負荷が高い修行内容となっています。講義の後には班ごとに集まり、ノートの記述内容を照らし合わせる話し合いが行われますが、ここで担当教員の強い思想的指導が入ることがあります。教員が意図する「着地点」に沿った結論を出さなければ議論が前に進まず、「こういう自由な考え方もあるのではないか」という修行僧側の意見が認められないこともあり、精神的なプレッシャーの中で徹底的に宗派の考え方を叩き込まれることになります。

食事の風景と他宗派の過酷な修行事情

修行中の唯一の楽しみとも言えるのが「食事」ですが、仏教界全体を見渡すと、その事情は宗派によって千差万別です。ある宗派(禅宗など)の修行では、精進料理として出されたたくあんを噛む際に「パリッ」と音を立てただけで指導者に殴られたり、米を洗う際にお茶をかけて器を清め、一切の痕跡を残さないように飲み干さなければならないなど、食事の作法そのものが過酷な修行となっています。また、他の宗派では15日から17日間お風呂に入れず、ボディソープを脇に塗って滝行で洗い流すだけといった荒行や、日蓮宗系の100日間荒行など、肉体の限界に挑む修行も存在します。 これらに対して、浄土真宗の修行施設の食事は意外にも充実しており、修行僧を驚かせます。食事には肉じゃがが出されたり、カツカレーが振る舞われたりすることもあります。特に白米は「おかわり自由」となっていることが多く、厳しい修行中にもかかわらず、かえって体重が増えて太ってしまう修行僧も珍しくありません。しかし、白米ばかりを大量に食べる食生活が続くためか、修行僧の大半が便秘に悩まされ、トイレにこもるという人間味あふれるエピソードも存在します。また、施設からふと外を見ると、光り輝く中華料理店(餃子の王将)のネオンサインが見えることがあり、隔離された修行僧たちの俗世への思いを激しく刺激しているのです。

終わりに

同じ浄土真宗という教えでありながら、「東」と「西」で得度や修行のアプローチがこれほどまでに違うというのは、非常に興味深い事実です。作法や規律を通じて身体から僧侶としての自覚を養う道も、社会課題と向き合い思想を深める道も、どちらも現代に教えを伝えるための真摯なアプローチに他なりません。

普段、私たちが法事などで目にするお坊さんたちは、皆こうした過酷で、そして時には少し人間味あふれる(白米を食べすぎてしまうような)隔離生活を乗り越えてきた方々です。次に法要でお坊さんが読経する姿を見たとき、彼らが経験した「正座の痛み」や「修行中の苦労」に少しだけ思いを馳せてみると、お寺やお坊さんという存在に、これまでとは違った親しみを感じられるかもしれません。

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