「経営の見える化」が分けた明暗――お寺の継承交渉

はじめに:寺院消滅時代に問われる「継承の作法」

現在、日本の寺院数はコンビニエンスストアよりも多いと言われていますが、その裏では「後継者不在」による廃寺の危機が深刻化しています。寺院を次世代へ繋ぐ「継承」は、今や宗教界の死活問題です。

しかし、どんなに素晴らしい志があっても、事前の準備を怠れば、継承交渉はあっけなく破談します。今回は、当事務所が経験した「失敗事例」を通じ、現代の宗教法人が抱える課題と、教訓についてお話しします。

1. 相談の始まり:研究職への転身を願う住職の想い

依頼者は、地方で3つのお寺を管理していた住職でした。彼は宗教哲学者としての研究職に就くという明確な将来ビジョンを持っており、自身の寺を「熱意のある若手に引き継ぎたい」という希望を持っていました。

幸い、知り合いの伝手で、ある寺院の次男坊が「ぜひ引き継ぎたい」と名乗りを上げました。双方は意気投合し、当初は非常に有効的な雰囲気で話が進んでいました。依頼者は「彼なら自分の代わりを務めてくれる」と確信し、具体的な条件交渉のために私に依頼をされました。

2. 交渉の変質:現れた「大物弁護士」と経営的視点

後継者候補の側には、業界でも有名なベテラン弁護士が代理人として就きました。この時点で、この「継承」は単なる宗教的な引き継ぎではなく、一種の「事業譲渡(M&A)」としてのシビアな側面を帯びることになりました。

交渉の焦点は、引き継ぎの際に対価をどう設定するか、また依頼者の退職金を法人の収益からどのように捻出するかという、極めて実務的な議論に移りました。私は、お寺の収益力を分析し、無理のない分割支払いのスキームを提示するなど、専門家として最善の落としどころを探りました。

3. 致命的な欠陥:財務という名の「ブラックボックス」

しかし、交渉が進むにつれ、決定的な問題が浮き彫りになりました。それは、**「寺院の財務状況が全く見える化されていなかった」**という点です。

依頼者は長年、一人で寺を運営していたため、帳簿の管理が非常に属人的でした。

  • 収支の不透明さ: 檀家からの寄付金(布施)が、年間を通じてどれだけ確実に入るのかという裏付けデータがありませんでした。
  • 公私の混同: 法人の口座と住職個人の資産の境界が曖昧で、外部から見れば「本当にこの法人は健全なのか」という疑念を拭えませんでした。
  • リスクの隠蔽: 将来的に発生する大規模な修繕費用や、檀家離れの予測など、負の側面を客観的に示す資料が欠けていました。

後継者側の代理人である大物弁護士は、こう指摘しました。「私の依頼者は人生を賭けてここに来る。しかし、この『ブラックボックス』の状態では、将来の生活を保証できる確証がない。これでは判を押させるわけにはいかない」と。

4. 結末:半年間の努力と、届かなかった「契約書」

私は依頼者と共に、散乱していた領収書を整理し、過去の通帳を遡って、できる限りの「見える化」を試みました。実際、奈良まで足を運び、対面での協議を重ね、一時は合意に近いところまで漕ぎ着けました。

しかし、半年間に及ぶ交渉の末、届いたのは「本件は辞退させていただく」という、一通の冷徹な書面でした。 理由は、「やはり経営の根幹となる数字の信憑性に不安が残る」というものでした。依頼者の情熱や人柄は評価されていたものの、**「経営基盤としての数字」**を客観的に証明できなかったことが、最後の最後で信頼を壊してしまったのです。

5. この失敗から学ぶべき「右切れ(身ぎれい)」の重要性

この事例は、現代の宗教法人に極めて重要な教訓を残しました。それは、**「譲渡(承継)を考えるなら、まず自らを『身ぎれい(右切れ)』にしておくこと」**です。

多くの住職は、「お寺は信仰の場であり、金勘定は二の次だ」と考えがちです。しかし、いざ誰かにバトンを渡す際、相手が求めるのは「信仰」だけではなく、そのお寺を持続させるための「健全な経営データ」です。

未来の継承のために今すべきこと:

  1. 帳簿の整理: 日々の収支を透明化し、誰が見ても理解できる形式で記録する。
  2. 公私の分離: 個人の財布とお寺の財布を明確に分ける。
  3. 資産の棚卸し: 土地や建物の権利関係、負債のリスクを整理しておく。

当事務所では、こうした「失敗の痛み」を糧に、相続や承継の相談を受けた際には、まず現状のリーガルチェックと財務の整理から着手することを強くお勧めしています。 トラブルになってから動くのではなく、健やかな運営ができている今のうちに、未来への準備を始める。それが、伝統を守り抜く唯一の道なのです。

「専門家の窓口」の役割

「専門家の窓口」では、寺院のトラブルや経営に関する有益な情報を提供します。

オンライン相談で専門家にアクセスし、オンラインチャット形式で気軽に相談ができるシステムを近日公開予定です。

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